コロナという名前が一般に浸透してしまってから約一年。
みんな色々なことをガマンして来ました。
愛しい人に会うこと、家族との団欒、友人達との語らい
ソーシャルディスタンスなんて舌触りの良いカタカタ言葉をみな遵守しながらも、やっぱり何処か限界があって、ウェブカメラ越しの大切な人の姿はやっぱり液晶に映ったピクセルの集合体に過ぎないし、いくら文字で想いを伝えようともそれはただみんなが知っている記号の羅列で。
SNSで繋がっていた気になっていても、やっぱりそれはただの感情の切れ端にしか思えなくて。
マスクで顔の半分を塞がれ、緊急事態宣言に生活の一部が塞がれ、
一方で転売というわずかばかりの小金を得るための金銭欲は蔓延し、行き場を失った不満は行き過ぎた正義感へと形を変えて跋扈して。
ごくわずかな期間で赤だったものが青に、白かったものは黒になってしまったかのような世界の変わりよう。
みなそのスピードに戸惑いながらも、振り落とされてしまわないように必死に拳を握り、歯を食いしばる毎日。
そんな去年の春は桜を楽しむことすら許されなかった悲しい春。
その訪れをみなで祝うことすらできなかった寂しい春。
それでも桜はいつも通り健気に花を開き、そして散っていっていつも通り春の訪れを皆に知らせる役目を全うしていて。
桜を見る時、ついつい満開に花開く桜を見てしまい、足元の散っていった花びらをその足で踏んでしまうのがとても嫌だった。
華やかな姿に憧れ、無自覚で同じ花の命を踏むその行為が、外のものに憧れて自らのアイデンティティをないがしろにしている多くの日本人の姿の様に見えて。
そういう意味では去年の春は足で踏まれた花びらが少ない年だったかもしれない。
咲いている花と散った花がいつもより公平に、平等に扱われた気がして。
そのことだけは少し良かったと思う。
全てを一度真っ白にしたい。
赤か青か。白か黒かの正解不正解による争い・諍いがなくなるように。
全てを一度灰にしたい。
咲いているのか散っているのか、見られるものか踏まれるものかの差をなくしたくて。
全てを一度燃やし尽くしたい。
良いことも悪いことも全て忘れ去ってもう一度リスタートできる様に。
皆があの春のことを忘れないように。
桜があの春に誇らしく咲いていたことの証を残す為に。
あの時祝福されるはずだった春のことを改めて祝福する為に。
まるでソーシャルディスタンスの言葉が示すように、皆が触れたくても触れられないところに、皆があの時笑いながら過ごすはずだった春の景色のかけらを閉じ込めて。
あの春誇らしく咲いていた桜が安心して春の夢を見られるようにそっと閉じ込めて。
所詮感情の切れ端だ なんて割り切っていたSNSに随分と救われて、少し自分の価値観の変化に嬉しさを感じたから、その証に桜の花とともに特別な文字も一緒に封じ込めて。
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