高木、オブジェやめるってよ

困った話

みなさんこんにちは。ビジュアル系ガラス作家の高木基栄です。

 

タイトルにはオブジェやめると書きましたが、厳密には自分の作品について「オブジェ」っていう言葉を使うのをやめます。

オブジェっていうのがイヤになっちゃった

というのも、昔からオブジェという言葉の使われ方がなんか引っかかっていました。

個展やグループ展をギャラリーで見る場合(自分がする場合も)、グラスやお皿等の用途のあるものと、用途のない立体作品の両方で構成するという場合が非常に多いです。

で、こういう場合グラスなどの用途のあるものを「うつわ」、用途のない、使えないものを「オブジェ」と呼んで分けてしまっています。

 

一つの考え方として用途のある・なしを呼び方を分ける境界線にしてもいいです。
間違いではないと思います。

お客さんに説明する際にも共通認識、共通言語としてとても便利な分け方です。
別にオブジェという言葉を使うことが悪いと言いたいのではないです。大いに使ったらいいと思います。

 

ただ、なんの考えもなしにその考え方、言葉を採用するのはありですか?
要点だけわかりやすく説明したいときはまだしも、自分の作品について考えなしに使うのはなしだと思うし、自分の作品を大事にしてないなぁ と思う。

 

中にはオブジェという言葉を避けてアートピースという呼び方をする人もいるけれど、オブジェという言葉を意識的に避けて無意識に(もしくは消去法的に)アートピースという言葉を選んで使っているあたり外面だけよくしているみたいでいいカンジがしない。むしろタチが悪いとも思う。

 

 

ちなみにオブジェの意味をネットで調べるとこんなカンジ

もとは物、物体、対象、客体、対象、目的の意味。主体(sujet/subject)に対する客体。量産された既製品や自然物の断片といった本来芸術とは無関係の物体を、非実用的なただの「もの」として呈示するときにこの語が当てられる。物体そのものを指すと同時に、そうした物体を作品として呈示するという考え方や観念を含んだ呼称である。・・・以下略

引用:artscape

ここではオブジェってこういう意味だよ! っていうオブジェ論についてあれこれ言いたいのではなくて、考えなしにオブジェという言葉を使ってしまってることについて、ちょっとマズくない?と言いたい。

 

 

 

先日、作品制作はデート。工芸はその素材との恋愛みたいなもんです っていう記事を書きました↓

恋愛工芸論
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); こんにちは。ビジュアル系ガラス作家の高木基栄です。 展示会場にて在廊している際に、お客さんから尋ねられる率No.

これが今のボク考え方なのでこれを下地にして考えてみます。

 

ひとくくりに用途のある物を「うつわ」用途のないものを「オブジェ」っていうのは、好きな相手に対してその人の名前を呼ばずに「お嬢さん」とか、「あなた」ひどい場合は「女」って名前を呼ばないのに似てないですか?

普通作家は自分の作品のシリーズ・タイトルは一生懸命考えます。一生懸命作った作品だから当然です。

作品にとってのタイトルは人だと<名前>にあたる部分ではないかと思います。
だったらオブジェ・うつわっていうのは名前の一歩手前、人でいう<苗字>にあたるんじゃないかな と思うんです。

だったら苗字もちゃんと考えようよ!というのが今回のボクの主張です。

 

 

普通初対面の方にはまず苗字で自己紹介することが多いと思うので、やっぱり「うつわ」「オブジェ」っていう分け方も初めて作品を見てくれる方に対しての自己紹介としては最初に名乗る部分なので大事ですよね。

その大事な部分をみんながみんなどこの誰が呼び始めたかわからないオブジェという呼び方で呼んで気持ち悪くないのかな っていうのが昔からモヤモヤと引っかかっていたところです。

 

 

ボク達は生まれてきたら苗字は決まってます。これはしょうがない。

ただ、別に作品は戸籍に登録する必要もないし、みんな同じ<苗字>を名乗る決まりもないので、もっと自由に<苗字>も考えてつけたらいいと思う。

 

戦国武将とかの苗字は、殿様から与えられたりなんかしてすごく意味のあるもの。

ボクらの苗字も意味を辿るとご先祖様の職業がわかったりとけっこういろんなルーツが探れたり。

(伊藤さん・佐藤さんの「藤」がつく苗字は藤原家を縁がある みたいなのはちゃんとルーツが含まれていたり、木下藤吉郎秀吉→羽柴秀吉みたいな、あれってたしか織田家家臣団の丹羽長秀と柴田勝家の功積にあやかりたいって意味で一文字づつもらった 的な話を読んだ事がある気がします。←苗字のつけ方に意欲があって好きな例。ああいう意味みたいなのをちゃんと考えたい)

そんなカンジで自分が殿様になった気分で自分の作品にも意味を込めて<苗字>を与えたい。

なぜ呼び方を考えるか

オブジェに変わるしっくりくる呼び方を考えたい。

いや、オブジェという言葉でもいいんだけれど、その際はちゃんと意味を理解して納得してから使いたい。

 

たぶん人から見たら相当面倒臭いことを言っているのは自覚しているし、見る側からしたら正直すごくどうでもいいことだと思います。

 

 

なぜ呼び方にこだわるかというと、この呼び方について印象に残っているエピソードがあって、学生時代一番色々教えてもらっていた先輩は自分のことをガラス作家ではなく「硝刻家」と自称してました。

 

オブジェ・うつわの分け方とはちょっと話がズレますが、先輩は「硝刻」という言葉に結構な時間をかけてたどり着いたんじゃないかと思います。

この作業って結構面倒臭いことだと思うし、目に見えて何かが変化するわけじゃないから、やらなくてもきっとバレないし、指摘もされないでしょう。

 

でもちゃんと自分が納得できる言葉を見つけ出して、自身のことについて自分で言葉を考えて選ぶってすごくイイことだなということをその先輩から教わりました。

この作業は錨を下ろす作業に似ていて、この錨を下ろしておくことで、自分がブレて波に流されそうになったとき変なところに流されてしまわないように抑えていてくれるものだと思ってます。

 

ボクも自分の性格はある程度わかっているつもりで、調子が悪いときはすぐいろんなところに流されそうになってしまいます。だから錨が必要だ。

ボクが自分の作品について考えなしに「オブジェ」という言葉を使いたくない理由はそこにあります。

正直、顔も知らない誰かが作った錨を安心して使えない。

オブジェに変わる言葉

で、今までオブジェということでうやむやにしてきたところを色々考えた結果、これから自分の作品は「硝像」(しょうぞう)と呼ぶことにしました。

 

硝像という言葉について出来上がった経緯は、数年前自分の作品について「ボクはガラスについてこう思う ということがある。でも上手いことそれを日本語にできないのであーでもない、こーでもないと作品を触り続けた結果がこの作品です。だから自分の精神的な肖像を具現化したというカンジ」と説明したことがあって、この精神の肖像というその時出た自分の言葉に何か手がかりを掴んでいました。

 

また別の時に陶芸家の鈴木治という存在を知ったこと。鈴木治も自分の作品をオブジェと好んではいなかったようで、自身の作品に泥象(でいぞう)泥像(でいしょう)という言葉と用いていたことを知って強く背中を押してもらえたような気がしました。。

昔美術館や図録で見たことあるような大先輩もオブジェという言葉を好まず自分で言葉を考えていたことを知って、自分の考えもあながち間違いではないかもしれない と少し自信をつけさせてもらったのとともに、泥像という言葉を知って妙に腑に落ちた気がしました。

 

 

肖像×泥像=硝像

 

 

ほぼパクリやん!と突っ込まれそうですが、パクリでも全然いいです。この言葉に納得しているので。

意識もせず、考えもしないでみんなと同じ言葉を使うよりは自分で考えて取捨選択したものの方が何倍も価値があると思ってます。

 

硝像という言葉が浮かんでようやくボクも流されないよう錨を下ろせた気がします。

またこの先、この硝像という錨では耐えきれないくらい強い流れに流されそうになった時は新しい言葉を考えてそれを錨としていきたいなぁ なんて。

 

こうやって誰でも見れる環境に、オブジェという言葉は使いません!と宣言することで周りの目が気になってちゃんと自分でも守れそうな気がする。。。禁煙宣言と同じような思考で宣言してみました。

おしまいっ

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